
ディレクターよ、立ち上がれ
「忙しいですか?」という挨拶に、「ディレクターが足りない」という返事があって「いい天気ですね」で通じるのはおかしな話。でも普通のことになった。今、Web業界は深刻なディレクター不足にあるらしい。本当に?もうそんな事を信じている人はいないように思う。毎年々々これほど大量に新人がデビューする業界も少ない。また去っていく業界も少ない。入ってくるのが足りないのではなく、通過していくスピードが追いつかないんだ。知り合いのコンサルタントによると人材の入れ替わりが月間5%で落ち着いている大手もあるという。一年経つと半分以上が入れ替わっていることになる。「忙しいですか?」の返事は「速すぎる」が正しい。
なかでもとりわけ、なぜディレクターなのか?これには誤解がある。正確には「その他以外」。デザイナー以外、コーダー以外、フラッシャー以外、プログラマー以外。チーム内のディレクター以外のその他から見た、それ以外のもの、の全て。これがディレクターと呼ばれている訳。自己言及になってしまっているこの記述の混乱そのものが最もこの特徴を現しているように思う。
Web制作はチームで行うプロジェクトだ。加えて対象となるのは、カスタムメイドのプロダクト。ユニーク性を要求し、スクラッチを必要とする。一意であること、差別化を実現している事が要件になる。さらにプロダクトであるからには、制作工程から成果物の性能まで、全てに市場性が求められる。こうした、物を作る、モノを創り上げることに依る業界は他にも少なくない。ただ注意が必要なのは、こうしたゼロからモノを創り上げるという行為は、対象を問わず、その規模こそ違えプロセスを構成する要素は変わることがないという点だ。コンセプトは反映されているか?、リソースは適切か?、遅延は無いか?、施主の要求は満たされるか。サイトを作るのも、橋を架けるのも皆同じ。同じだけのタスクがある。Web制作とは、最も小さな時間とチームで臨む、橋を架ける行為だ。
チームが、この膨大なタスクをクリアしていくための最初で最後の具体策として、スタッフ毎に担当すべきタスクの分担が採用されている。しかしこれはディレクターにとってはフェアな方法ではない。デザイナーやプログラマーは初めから自分の定義に技能を充てて名乗る戦略で臨んでいる。対するタスクは現実を局面毎に切り取った無数の断片であって、原理的な職能の都合で割り切れる物ではない。割り当てられない余りには該当する職能がない。職能にないリソースは名指しすることができない。名を呼べないリソースはアサインできないのだ。そして、アサインすることを使命とする者は、アサインできないものの責を自身で負う。自ら引き受ける者、これがディレクターである。こうした構造は、それが要求することでディレクターを生み、持ち堪えられないことで去らせる。ここでディレクターは存在ではなく、現場に起こった現象なのだ。
ただチームなのだから、越境するからといって持ちきれないほど抱えた人間を助けないほど業界が非情な訳ではない。しかしディレクターは常に圧死と隣り合わせにいる。これにはプロジェクトの小ささが起因している。一つ々々のタスクは小さい。その集積もまた一人の嵩に間に合う。しかしそれは錯覚だ。どんな行動もそれを計る倫理がある。良いか、悪いか、正義か、悪か。デザイナーは自身の審美に従う。名は矜恃を示す。名のない者には因るべきものがない。つまりディレクターは常に異なる価値感に晒されるのだ。一見小さく見えたタスクたちは、橋が完成するまでの様々な都合で様々な方向を向き、やがてカゴから溢れ出す。向きの揃わない荷物はかさばるものだ。
もちろん、こうしたことは本望ではない。自分の本分に立ち返り、占めるべき職能に準じてやり直すこともできる。アートディレクター、クリエイティブディレクター、自らを名付け直すことができる。しかし忘れてはいけない。引き受ける者あるところ、ディレクターあり。引き受ける必要あるところ、ディレクターあり。自らの名を否定する者は呪われている。呪いの執拗さで誰かが被る。これは構造であり、現象なのだ。呪われたる者、それがディレクターである。
呪いは解かれるべきだ。撃つべき銀の弾は無くとも解読の旅には出るべきだ。何もかもをディレクションという言葉でく一纏めにすることをやめよう。確かに一人の人間の目配りと審美眼がなければ達成しないクオリティがあるのは確かだ。真ん中に魂のある、隅々まで血の通ったプロジェクトであるためには献身が必要だ。しかしその献身はクオリティにのみ費やされるべきであり、何人もかすめ取ってはいけない。献身であって生け贄でないのだ。こうしたことはWeb に限ったことではなくて、どんな業界であってもコトの中心に構えてリクエストに応える人間というのは、何処を問わず同じような目に遭うのかもしれない。しかしだからと言って全てを諦める必要はないし、改善されないのはナンセンスだ。ましてやこうした都合を案件が被るのはオカシな話だ。そうした事情は当事者が自信を持ったり業界を超えた共感が生まれたり、前向きなものに限りたい。
こうしたリスクを被っているのはディレクターではなく案件なのだ。解決は難しくとも認識したなら対処はするべきだ。まずは立ち上がるべきだ。周辺も巻き込んで。問題が立ち上がる以前へ向けて立ち上がらなければ構造を超えることは難しい。問題を解決する前に、問題発生以前に返るというのは解決法の先送りのようにも思えるが、まずは問題の有り様を示すことから始めるべきだと思う。このテキストのタイトルも本文の趣旨とは的外れだが、このタイトルを前にした時に立ち現れる、誰でもあり得る話者と聴衆、両者で共有する問題意識という3つの存在が何かしら震源地のあることを示すように、趣旨を要約してはおらずとも、本来の意図に適切な対象に呼び掛ける役割を果たす限りにおいて的外れではないだろうし、なんであれ問題の在処を指し示す行動は愚かなことではないはずだ。

